教会外観写真

牧師紹介  

 

田畑 淳(たばた あつし)

1982年3月24日生まれ、和歌山県和歌山市出身
1993年5月30日 和歌山ルーテル教会にて受洗
2005年3月 聖和大学人文学部キリスト教学科卒業、教師免許(中学・高校、聖書科)取得
2008年3月 神戸ルーテル神学校卒業、神学修士号(M.Div.)取得
同年4月より 近畿福音ルーテル教会伝道実習生
2012年4月より 泉北ルーテル教会副牧師
2013年4月より 泉北ルーテル教会牧師

(エルサレム郊外の公園で)

物心つく頃から演劇をこよなく愛する。
趣味は、舞台&映画鑑賞、読書、物を書くこと、自然を見ること。
好きなテレビ番組は、吉本新喜劇とNHK大河ドラマ。

好きな聖書の言葉

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難(かんなん)は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(第二コリント4:16-18)

 

ちょっとひとこと

 

牧師 田畑 淳

「長崎旅行記(2)」

前回は、日本26聖人記念館のお話をしました。
この記念館には、隠れキリシタンの遺物も多数展示されています。
信仰が禁じられていた時代も、キリシタンたちは「なんとかしてこの信仰を後世に伝えよう。自分たちの子孫もイエス様を信じて救われてほしい」と願ったのです。そして自分たちなりの方法で、工夫しながら、信仰を継承していったのです。
私は、隠れキリシタンが迫害を逃れて暮らしていた福江島にも行きました。福江島のキリシタン資料館では、踏み絵を見ることができました。そこで「隠れキリシタンたちは、踏み絵を踏まされた後、悔い改めの祈りをし、自分の足を水で洗って、その水を飲んで、罪の赦しを乞うた」と聞きました。彼らはどれほどつらかったことでしょうか。
遠藤周作の小説「沈黙」の中に、こんな言葉があります。
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと、だれが断言できよう」
この言葉の意味が、現地へ行ってやっと分かりました。殉教した人たちも、踏み絵を踏んでから悔い改めの祈りをした人たちも、どちらも比べられないほど苦しんだことでしょう。殺された人たちは最後まで信仰を貫いたし、表向きは踏み絵を踏んだ隠れキリシタンたちも、彼らなりの仕方で信仰を代々、伝えていきました。
どちらもそれぞれの形で、信仰の道をまっとうしたと言えるのではないでしょうか。

1865年3月17日、10数名の隠れキリシタンたちが、大浦天主堂を訪れました。この人たちは宣教師に近づいて「私どもはあなた様と同じ心でございます」と打ち明けました。
日本でキリスト教の禁制が続いていた250年間、日本の信徒たちは、隠れて信仰を代々、受け継いでいたのです。
しかも、宣教師の記録によると、大浦天主堂にやってきた信徒たちは、イエス様の十字架の救いのことをちゃんと理解していたそうです。このような例は世界で他にありません。日本だけです。
250年間、どんな迫害も、どんな苦しみも、信仰の火を消せなかったのです。
命は奪えても、誇りは奪えても、信仰は絶対、奪えないものなのです。長崎の旅を通して私はそのことを教わりました。

聖書はこう語っています。
「(初期のクリスチャンたちは)あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたことも…ありました。…自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので…喜んで耐え忍んだのです。だから、自分の確信を捨ててはいけません」(ヘブライ人への手紙10:33~35より)
「確信」とは「イエス様が、私のために十字架で死んでくださったので、私は赦され、救われたのだ」という「救いの確信」です。

私たちにも耐え忍ばないといけないことがありますが、どのような時もこの確信、信仰を持ち続けましょう。この信仰、主により頼んでいく心だけは、だれにも奪えないのですから。この信仰こそ、私たちを本当に強くしてくれるものなのですから。

(泉北ルーテル教会月報「いずみ」2月号 No.414 より)

大浦天主堂
隠れキリシタンが所持していた十字架のキリスト像

 

教会なんでもQ&A

 

(教会なんでもQ&A)

 

交通・アクセス

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「古畑」バス停(写真右下)

夕暮れに映える泉北ルーテル教会

 

おさそいとおすすめ

 泉北ルーテル教会は、「キリスト教会」です。

 キリスト教会って何だろう? 教会というと何を思い浮かべますか?

 結婚式をするところ? キリスト教の事をやっているところ?

 勿論それもあります。でもそれだけじゃない。

 教会は、「あなたにとって大切なところ」です。「なんで?」と思ったあなた、教会を訪れてみませんか? 教会にアクセスしてみませんか?

 「え? 私はキリスト教徒じゃないし、教会と縁もゆかりもないけれど、行っていいの?」

 はい、大歓迎です。だって、この教会はあなたの教会でもあるのです。教会には喜びがあります。讃美があります。何より平安があります。

 「交通・アクセス」の欄に、教会の場所・連絡先が載っています。 礼拝や集会は、「当教会の礼拝と集会について」の頁に、日時が書かれています。はじめは、メールや電話をしてみるのも良いかもしれません。教会の扉が開いていない時は、同じ敷地の家の扉をノックしてみてください。

 このホームページを見て、「!?」と思ったあなた。一度教会をのぞいてみませんか?

 教会には、あなたにとって良い知らせ(これを福音と言います)がたくさんありますよ。

(中村聡)